【彼女との話】「早く結婚してくれ」 従姉に恋をした。信じられないほど心が痛い。彼女に会ってから今日まで、一年一年、一日一日、その痛みは蓄積されていき、今は極限だと思う

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733
:2006/04/29(土) 16:38:29 ID:
止まるや否や、
いまだにそっぽを向いている恵子ちゃんの顎に、そっと手を添えた。

くるりと彼女が俺に向いた。

刹那。

彼女のくちびるは俺のものに。
俺のくちびるは彼女のものになった。


734:2006/04/29(土) 16:39:20 ID:
ゆっくりと、長く。

呼吸など無ければいい。



そうは思ったが、限界もある。
磁石を引き剥がすかのように離れた。

彼女の口から吐息がもれた。

たまらず、またくちびるを寄せた。

…結局、3回それを繰り返し、4回目にはふたりで笑い出した。

「俺って、しつこいなぁ(笑)」
「私も…しつこいよ」

5回目は恵子ちゃんのほうからだった。


735:2006/04/29(土) 16:40:33 ID:
シフトレバーをはさんだ無理な体勢で抱き合っていた。
心とは裏腹に、無理矢理、身体を離してお互いの席に戻った。

と、膝に花びらが一枚落ちた。
見ると胸のメランポジウムがぐったりしていた。

抜き取り、恵子ちゃんの小さな手のひらに置いた。

「あげる」
「ありがとお」

恵子ちゃんが両手で花を包んだ。

「…明日、帰っちゃうんだよねぇ」
「うん」
「…あーあ…」
「近いうちにまた帰ってくるから」
「…うん、待ってる。でも無理しちゃダメだよ?」
「ありがと」
「私も今度そっちに行くから!健吾君の住んでるトコ、見たい」
「いっぱい、見せたいものがあるよ」
「楽しみだな~」

無理して明るく振舞う恵子ちゃんがとてもいじらしかった。
身体が壊れてしまわないように、力加減をして抱きしめるのはとても難しかった。

「明日、見送り行くね」

腕の中の恵子ちゃんの声はか細かった。


736:2006/04/29(土) 16:41:36 ID:
翌日。
太田家での朝食の席で、昨晩田中家に挨拶に行ったことを報告した。
お父さんも母も、微笑みながら俺の報告を聞いてくれた。
よろこぶふたりの顔を見て、
自分が満ち足りていることを、温かなメシと一緒に噛みしめた。

いつものようにお父さんの車で駅へと向かった。
駅に着くなり、ふたりには悪いが早々に帰ってもらう。
恵子ちゃんが待っているのだ。
秘密にする必要はないが、やっぱりまだ照れくさかった。

駅ビルの喫茶店で恵子ちゃんと落ち合った。
今日も笑顔で俺を迎えた恵子ちゃんだったが、
時折、少しだけ浮かない表情を見せた。

(俺と離れるのが辛いのかな?…んもう、愛いやつめ)

などと気を良くし、恵子ちゃんの手を握る。

(え…?)

その手の熱さに驚いた。

「恵子ちゃん!熱あるんじゃないか!?」
「あ、ちがうのコレ。薬の副作用」

耳の薬を飲むと一時的に熱や軽い頭痛が起こるのだという。

「今日は朝ごはんの時に飲むの忘れちゃったから、ついさっき飲んだの。
 だいじょうぶ。あと30分もすれば収まるから」

眉が八の字になっているのに、精一杯の笑顔で俺に答えている。

これまで病気で辛そうにしている恵子ちゃんを見たことなどなかった。
もしかしたら、俺の前で我慢していたこともあったのかもしれない。
そう思うと、とにかく何かしてあげたくなった。
だから彼女のソファに並んで座った。

「俺に寄りかかってなよ」

よくファミレスなどで当人たちしかいないのに並んで座っているカップルを見ると、
(バッカじゃねーの)
などと胸の中で悪態をついていたものだが、この時は自分も馬鹿のひとりになった。

髪を撫でるたびに恥ずかしさは消えた。

案外、こういうのも悪くないな。
…いや、けっこう好きかも。


737:2006/04/29(土) 16:43:11 ID:
すっかり元気を取り戻した恵子ちゃんはホームまでついてきてくれた。

列車がホームに入ってくるまで15分。
相変わらずこの時間はイヤなものだ。
芽衣子さんとの時にも味わった、やるせない、切ない気持ち。
それを誤魔化そうと話し続けても、
浮かぶ言葉は虚ろで他愛のないものだけだった。

ふと見ると恵子ちゃんは無言で俯いていた。

あ、と思い、
「だいじょうぶ?また具合悪くなった?」
と、彼女の顔を覗き込んだ。



泣いてた。



初めて見る、恵子ちゃんの泣き顔。
言葉も出ず見つめた。

「さみしいの。さみしいの」

感情が加速していくのが見て取れた。

「ごめんね…ごめんね…」

嗚咽まじりに何度も謝る恵子ちゃんを抱き寄せた。
彼女の震えを止めてあげたくて腕に力をこめた。

新幹線のデッキに乗り込んでからも、恵子ちゃんの手を放せなかった。

このまま、かっさらってしまおうか?

簡単なことだ。この腕を引くだけ。

しかし未練を断ち切ったのは恵子ちゃんのほうからだった。
絡めた指をほどき、バイバイとその手を振る。
かろうじての笑顔。
言葉はない。

ドン、と無慈悲な音を立ててドアが閉まった。
あわてて小窓から恵子ちゃんを探す。
彼女の顔はまたクシャクシャになっていた。

そんな顔しないでくれ。
こっちまでつられてしまうじゃないか。

なんてことない。
しばしの別れなのだ。

自分に言い聞かせ、笑顔で彼女に手を振った。


738:2006/04/29(土) 16:44:03 ID:
横浜に戻ったその日の晩、恵子ちゃんからメールが来た。

「無事に着いたかな?
 昼間はごめんね。突然泣いたりして。
 いい歳して自分でも呆れます(笑)
 健吾君と離れるかと思ったら、急にさみしくなってしまったの。
 でも今はだいぶ落ち着きました。
 今とても健吾君の声を聞きたいけれど、聞いたらまた泣いてしまいそうなので、
 今日はメールだけで我慢します。電話しちゃやだよ?(笑)」

俺も自信がないよ。
きっととんでもないことを口走ってしまいそうだもの。

なんとかメールだけにした。
5回も6回も送ったが。


739:2006/04/29(土) 16:44:48 ID:
仕事が無い日は夜に電話を、
夜勤の日は昼間にメールをした。
毎日、彼女の声や文字に触れた。

仕事が忙しくても苦にならなかった。
短気な性格なのに腹を立てることがなくなった。
せっかちな性格なのに駆け込み乗車もしなくなった。
毎晩のように、良い夢ばかり見た。
気づくといつも笑顔だった。


740:2006/04/29(土) 16:45:40 ID:
「作品できたの!」

その日の恵子ちゃんの声はいつにも増して弾んでいた。
毎年4月に開催される書展の作品が仕上がったのだという。

「ずいぶん早く完成したんだね~」
「うん!びっくりするほど筆がすすんで。
 今までで最高傑作だと思う。もちろん自分の中でだけど(笑)」
「へぇ。今回の題材は?」
「んー…内緒(笑)」
「なんじゃそりゃ(笑)」
「知りたかったら、来年一緒に観に行くこと!」
「そりゃ絶対行けるようにするけど…なんだよ、気になるなぁ」
「健吾君」
「ん?」
「ありがとう」
「?なにが?」
「あのね、今回の作品つくってる時、心がすごく落ち着いてたの。
 今まで無いくらいに。
 それはね、きっと健吾君のおかげなんだと思う」
「俺、なんかした?」
「ううん。なんにもしてない(笑)」
「ワケわかんねぇ(笑)」

俺も君にお礼が言いたかったんだ。
俺は毎日、笑顔でいられるよ。

そんな照れ臭いこと言えやしなくて、別の話題に入った。

「9月になったらそっち帰るね」
「だいじょうぶなの?」
「うん、休みとる。デートしよう。ちゃんとしたデート(笑)」
「うん!(笑)」
「できれば8月中にもう1回くらい帰りたかったけど、仕事忙しくて…ごめんな」
「ううん!うれしい」

その後はあれこれとふたりでデートの予定をたてた。
気づけば電話は4時間にも及び、ふたりとも惜しみつつ受話器を置いた。


741:2006/04/29(土) 16:46:48 ID:
9月といえば恵子ちゃんの誕生日でもあった。
8月最後の休日、プレゼントを物色しに街に出かけた。

恋人へのプレゼントほど選んでいて楽しいものはない。
何を贈ったら彼女は喜ぶだろう。
自分の物を買うよりもウキウキする。
何軒もの店を巡った。

喫茶店で手早く昼食を済ませ、再び物色しに歩き出した時だった。
アクセサリーショップが目に止まった。
リングのいっぱい詰まったショーケースに引き寄せられる。

「そちらはエンゲージリングに最適ですよ」

俺の心を見透かしたかのように女性店員が言う。



エンゲージリング。



その言葉を意識した時、他の何物もプレゼントとして考えられなくなった。

食い入るように何分、何十分もケースを見つめた。
子供の頃に見たCMが頭に浮かぶ。
黒人の少年が雨の中、ショーケースの中のトランペットを見つめるCM。
たしかクレジットカードのCMだったか。

ふと、財布の中のクレジットカードを思い出した。
今はなんのローンも抱えてはいない。

(買えるな、コレ)

0がいくつも並ぶ値札。
その数が増えるほど恵子ちゃんの笑顔が増えるような、そんな馬鹿な錯覚を覚えた。

さっきから何度も声をかけてきた女性店員を手招いた。
嬉々とした顔で店員は駆け寄ってきた。

「サイズのお直しは後日でも結構ですので」

店員に愛想良く見送られ、店を後にした。

右手に提げた品の良い紙袋に何度も目を落としながら、まっすぐ家路についた。


742:2006/04/29(土) 16:47:46 ID:
家に着くなりバタバタと晩飯を済ませた。
風呂はカラスの行水。
髪を乾かすのもそっちのけ。
小さな化粧箱をテーブルにのせ、なぜか正座。
ゆっくりとリボンを解く。
指紋が消えるほどきれいに洗った指で、震えるほどやさしく指輪をつまんだ。

買ってしまった。

思わずニンマリとした。
渡す時のシチュエーションに思いを巡らし、楽しい妄想に何時間も浸った。

我ながら性急かなと、ちらと思ったりもした。

しかし、あらゆる事どもにいつも必要以上に悩む俺が、
コレを勢いで買った(どれにしようか悩みはしたが)。

その勢いが俺の気持ち。
それだけで十分。

確信と自信が漲った。


743:2006/04/29(土) 16:48:39 ID:
2005年9月9日 金曜日 午後11時過ぎ。
恵子ちゃんとのデートまで一週間と迫った夜。

夜勤明けのその日、夕方から床に就いていた俺は1本の電話で起こされた。
母からだった。

「恵子ちゃんが倒れて、病院に運ばれたそうなの」

母の声は落ち着いていた。
それは、俺にも落ち着けと言っているようだった。

「とりあえず守さんからそのことだけ連絡がきたんだけど、状況がよくわからないの。
 詳しいことがわかったらすぐ連絡するからね?いい?」

わかってる。わかってる。
だいじょうぶ。だいじょうぶ。

冷静に自分の言っていることを反復した。

10分。
20分。
30分。

電話はぴくりとも声をあげない。
この間、何をすべきか考えることもなく、自然に身体が動いた。
まるでこれから会社にでも行くように、歯を磨き、髪を整えた。

0時。
あらかじめセットしていた目覚まし時計が鳴った。

それが徒競走の合図でもあるかのように、
俺は携帯と車のカギを握り締め、外に飛び出た。


744:2006/04/29(土) 16:49:19 ID:
車で故郷に向かうのは初めてのことだった。
なんとか高速道路に乗り、記憶をたどりながらひた走った。

家を出て1時間も経った頃、携帯が鳴った。お父さんだった。

「今、向かってますから」
「そうか。とりあえず、状況を説明するね」

恵子ちゃんが倒れたのは午後9時頃。
風呂の脱衣所で。
医者の診断はくも膜下出血。
現在、集中治療室で手術中。

お父さんの言葉のひとつひとつが、
まるで新聞の見出し文字のように頭に入ってきた。

「私達も今、病院にいるから」

恵子ちゃんの家から少し離れた市立病院だった。
そこで初めて、病院がどこかも知らずに家を飛び出したのに気づいた。


745:2006/04/29(土) 16:50:20 ID:
5時間ほどで病院に着いた。
当直の看護師に案内され、集中治療室へと向かう。

治療室の前、長椅子に守さんと浩美さん、お父さんと母が座っていた。
「来てくれてありがとう」と、守さんと浩美さんが力なく、それでも笑顔で言った。

手術は未だ続いていた。

守さんに話を聞いた。
仕事から帰ってきた時、恵子ちゃんはいたって普通だったそうだ。
それが食後、頭痛を訴えた。
恵子ちゃん自身も、守さんたちも、
それは耳の薬のせいだと気にも留めなかったという。
そして恵子ちゃんは倒れた。

皆、言葉もなく、時が経つのをひたすら待った。



夜が明けた。
沈黙を守っていた治療室の扉が、拍子抜けするほど軽薄な音をたてて開いた。
一斉に立ち上がった俺たちを、出てきた医者が別室へと誘った。

医者の説明には守さんの希望で俺たちも同席した。

手術は無事に済んだ。
やはりくも膜下出血だという。

この時、初めてこの病気に対する知識を得た。
この病気は、脳を取り巻く動脈に“動脈瘤”というコブができ、
それが破裂してしまうことだそうだ。

高血圧だったり、乱れた生活を送っていたり、
疲れやストレスが原因になり得ると医者は言った。
だがそのどれもが恵子ちゃんには該当しなかった。

「遺伝的なものかもしれません」
医者の言葉に守さんが頷いた。
田中の一族には何人も脳の病気を患った人がいるそうだ。

そして最後に医者は言った。
24時間以内に再破裂の恐れがあり、そしてそれはかなりの高確率だと。

再破裂したら、その先は…。

誰もその質問を口に出すことはなかった。


746:2006/04/29(土) 16:51:03 ID:
集中治療室には誰も入れてもらえなかった。
当然といえば当然の対応なのに、俺は理不尽な怒りを覚えていた。

憔悴しきった4人に仮眠をとることを勧め、俺はひとり治療室の前に残った。
時折り開く扉の隙間から室内を覗ったが、様々な機材が俺と恵子ちゃんを隔てていた。

こういった場面ではよく「どれほど時が経ったのだろう」などと、
時間の感覚を失くすようだが、そんなことは俺には微塵もなかった。
壁に掛かった時計と共に、冷徹なほど、時を認識し続けた。


747:2006/04/29(土) 16:51:47 ID:
昼。
ただ時計の針を追うだけの時間に終わりが来た。

何かが起こったのはすぐにわかった。
滅多に開かなかった治療室の扉が、
目まぐるしく、せわしなく、医者や看護師を吸い込んでいく。

知らせを受けた守さんたちが駆けてきた。

30分後。
治療室の扉がやっと俺たちを招き入れてくれた。

物々しい機械に囲まれたベッドに、恵子ちゃんが横たわっていた。

浩美さんが恵子ちゃんの身体に覆い被さった。
その傍らで守さんが立ちすくんだ。
お父さんと母も立ち尽くしていた。

数分後、医者がなにか説明を始めていた。
だがそれは、
俺にとってなんの意味もない説明だった。





恵子ちゃんはもう、笑わない。


748:2006/04/29(土) 16:52:34 ID:
守さんが看護師と“今後”について相談を始めていた。
母は浩美さんに付き添っていた。
お父さんは俺の肩を抱き、俺は彼に導かれるまま治療室の外に出た。

ふたりで喫煙所に行った。
ジュースの自販機があった。
ジーパンのポケットを弄り、気づいた。

(あ、サイフ忘れてら)

いいよ、とお父さんがコインを出し、俺にコーヒーを買ってくれた。
熱いコーヒーが腹に流れ落ちていく。
今日初めて口にした食物だった。

「だいじょうぶ?」

タバコを差し出しながらお父さんが言った。
銜えると、すかさず火を点けてくれた。
これも今日初めての喫煙。

旨かった。驚くほど。
そのことに自分の精神状態を推し量った。

「だいじょうぶです」

自分では力強く言ったつもりだった。


749:2006/04/29(土) 16:53:14 ID:
夕方。
電話で職場の先輩に事情を説明した。
恵子ちゃんとの関係を知る由もないのだが、先輩は気を遣ってくれ、
あらかじめとっていた来週末の休みまで続けて休めるよう、手配をしてくれた。

ほどなくして、
お父さんたちが手配した葬儀屋が、恵子ちゃんを葬儀場へと運んでいった。
俺も車で随伴した。

式場に着くなり、守さんとお父さんは葬儀屋と打ち合わせに入った。
何か手伝いをと申し出たが、守さんもお父さんも「休んでて」と気を遣ってくれた。

何かしてなければ恵子ちゃんのことばかり考えてしまう、
そう思っていたが、頭の中は空っぽだった。
駆けつけた親戚の人たちと交わした言葉も、すべて頭を素通りした。


750:2006/04/29(土) 16:53:57 ID:
一時間ほど経った頃。
することも、考えることもなく喫煙所に入り浸っていた俺の元に母がやってきた。

「今、湯灌が終わったの。浩美さんが呼んでるから来て」

母に案内され、湯灌室へと行った。
まるで診察台のような飾り気の無いベッドの傍らに、浩美さんが立っていた。

その顔が見れない。
ベッドも見れない。

虚空に視線を漂わせていたら、浩美さんが言った。

「健吾君、お願いがあるの」

顔を上げた。

「恵子に、服を着せてあげてほしいの」


751:2006/04/29(土) 16:54:46 ID:
「はい」

膝に力を入れ、ベッドへと近づいた。
浩美さんが覆っていた白い布をまくった。

起きている時と少しも違わぬ恵子ちゃんが、そこにいた。

胸には下着をつけ、腰にはサラシが巻かれている。
鼻や耳には脱脂綿が詰められ、なんだか息苦しそうだった。

澄んだ白い肌には一点の生気の欠片すら残っていないはずなのに、
触れれば恥ずかしがる恵子ちゃんを感じた。

首と肩を右手で支え、半身を起こした。
こんなに軽いものなのか。

俺の顎のすぐ下に、
あの日、束の間の愛撫を重ねた恵子ちゃんの小さなくちびるがあった。

浩美さんが白い着物を差し出しながら、手伝おうと手を伸ばしてきた。

「ひとりで、やらせてもらえませんか」

浩美さんは頷いてくれた。

恵子ちゃんを胸に抱き、虚脱した四肢を着物に通していった。
身体を動かすたびに、きつい薬品の匂いが鼻をかすめる。
大好きだったアリュールの香りは、今はもう残り香すらしない。

手を握った。
肩を抱いた。
顔に触れた。

着せ終わった恵子ちゃんを、いつまでも抱いていたかった。

浩美さんが「ありがとう」と言った。
その言葉がすべてに終わりを告げているように感じた。


752:2006/04/29(土) 16:55:39 ID:
棺に入れる遺品を用意するため、浩美さんと母が家に帰った。
今夜は守さんとお父さんと俺が、恵子ちゃんの側にいてあげることになった。

すっかり夜も更けた頃、寝酒にとお父さんが酒を用意してくれた。
守さんも付き合い、三人で淡々と飲んだ。
ほとんど会話もない酒盛りだったが、酔いなどまわろうはずもなかった。

そろそろ寝ようかと、ふたりが式場内の寝室に引揚げた。
俺は恵子ちゃんの元へと向かった。

恵子ちゃんが眠っている部屋は、明日の通夜の場ともなる広間だった。

飾られ、煌々と照らされた祭壇の前。
聞こえるはずのない恵子ちゃんの寝息を探し、静かな彼女の寝顔を見続ける。

もう、いいんだぞ。

だが俺の目は期待を裏切り、沈黙していた。


753:2006/04/29(土) 16:56:26 ID:
翌日。
葬儀の雑用で日中を慌しく過ごし、あっという間に通夜を迎えた。

読経の最中だった。

突然、守さんが泣き出した。
ウオオオとも、ウアアアともつかない、激しい慟哭だった。

俺は守さんを羨ましく思った。



蚊取り線香のように螺旋状になった線香。
朝までもつというこの線香が寝ずの番を不要としていたが、
それでも恵子ちゃんの側にいたかったから、俺は線香を点け続けた。

深夜1時をまわった頃だったか。
皆寝静まり、俺ひとりだけとなった祭壇の前に、最年長の従兄・勲夫さんが現れた。

「恵子と付き合ってたんだってね」

酒を酌み交わしながら勲夫さんが言った。

「あの子は、従妹というより妹みたいなもんだったんだ。
 だから、健吾君と付き合ってるって聞いた時、俺もすごく嬉しかったんだよ」

祭壇を眺める勲夫さんの右目から、涙が筋をつくった。

「よかったよ。あいつに…最後に大切な人ができて」

飲んだ酒がそのまま出てきているかのように、
勲夫さんの目は乾くことを忘れていた。

勲夫さんが寝室に引き上げた。
またひとりとなった部屋で、俺はゴロンと寝転んだ。

“男は人前で泣くべきではない”

子供の頃からの親父の教え。

頑なに、なぜ守っているのか。俺の身体は。
そんなにも深く、刻み込まれているというのか。その言葉は。

恵子ちゃんのために泣くことが、彼女への手向けとなるはずなのに。

泣け。
泣けよ、俺。


754:2006/04/29(土) 16:57:13 ID:
いつのまに眠っていたのか。
早朝、守さんに起こされた。

「側にいてくれてありがとう」

守さんの言葉が、まるで恵子ちゃんの言葉のように聞こえた。



午後からの葬儀、俺は受付を買って出た。

参列はしたくない。
理由はわからなかったが、ただその一心だった。

守さんは了承してくれた。

勲夫さんから借りたサイズの合わない喪服を身につけ、ふたりで受付に立った。
多くの人が記帳していき、やがて恵子ちゃんの会社の人たちが訪れた。
その一団の中、ひとりの男性が目についた。

その男性は、止め処なく溢れる涙を必死に拭っていた。



彼は…きっと、彼だ。



直感が決めつけた。

覚束ない筆遣いで書かれた彼の名。
もちろん見覚えなどないその名前に視線を落とし、
俺は彼の姿を決して見ようとはしなかった。


755:2006/04/29(土) 16:58:04 ID:
葬儀が始まった。
静まり返った受付の席にじっと座る。
訪れる者はなかった。

かすかに聞こえる読経に耳をすませながら、俺は恵子ちゃんを思い浮かべた。
何度も何度も、繰り返し繰り返し。
そうすることによって、無理矢理に感情を呼び起こそうとしていた。

華奢な背中。
屈託のない笑顔。
俺を見上げる瞳。
何かをささやく小さなくちびる。

そして、
別れ際に見た泣き顔。

頭の中を恵子ちゃんが舞う。

だが、
それだけだった。

どうして、守さんや勲夫さんや“彼”のようにできないんだろう?
ひょっとして俺は、まだ現実を認識できていないのか?
動かなくなった彼女に触れただろ?
まだ無意識に我慢してるのか?
それとも、単に冷たい男なのか?

それとも。それとも。それとも。

「お別れよ。お花を手向けてあげなさい」

母の声が俺を現実に引き戻した。
葬儀は終わっていた。


756:2006/04/29(土) 16:58:42 ID:
他の参列者はすでに終わっていて、俺と勲夫さんだけとなっていた。
それぞれ恵子ちゃんの左右にまわり、オレンジ色の花をそっと顔の近くに置いた。

じっとその顔を見つめる。

どんなに生きているかのように化粧が施されていても、
動かず、表情もなく、ただそこにあるだけの存在。

眠そうに目をこすりながら、『おはよう!』と笑いかけてくる、
そんな気配はもう消え失せていた。

棺に蓋が被せられた。
参列者が一打ち一打ち、一本一本、釘を打ち付けていく。

蓋の小窓が閉じられようとしていた。

そこからのぞくものを決して目に焼き付けないように、俺は視線を逸らした。


757:2006/04/29(土) 16:59:26 ID:
冷たい、ねずみ色の鉄の蓋。
読経の中、俺の目はそこ一点に釘付けになった。

火葬。

あの向こう側に、恵子ちゃんがいる。

恵子ちゃんが、焼かれている。

恵子ちゃんが、消えていく。









突然のことだった。

奥歯が鳴った。加速する鼓動と連動しているかのように。
足が、一歩、また一歩と前に踏み出した。



俺が憶えているのはここまでだった。


758:2006/04/29(土) 17:01:27 ID:
開いた目に、母の顔が飛び込んできた。

「だいじょうぶ?だいじょうぶ?」

泣き顔だった。

周囲に視線をめぐらす。

十畳ほどの和室。
そこに床が延べられ、俺は寝かされていた。
そこは火葬場の控え室だった。

「大変だったのよ」

一生懸命、涙を拭いながら、俺の身に起きたことを母が話してくれた。

俺は突然、叫び出したという。
そして意味不明な言葉を発しながら、閉ざされた焼却炉の扉を叩き始めた。
あまりの異常さに驚いたお父さんや従兄たちが、俺の身体を制した。
俺は激しくそれに抗い、そして十数秒後、ヘナヘナと失神してしまったそうだ。

俄かに信じ難い話だったが、掛け布団をめくって愕然とした。

ズボンを穿いていなかった。
驚き、白黒させた目に、見覚えのない真新しい下着が映った。
気を失った俺は、失禁していたそうだ。

「本当に…気でも違ったのかと思ったんだから」

せっかく拭った母の頬がまた濡れていた。

首筋から頭のてっぺんまで寒気が走った。
羞恥心とは違う、得体の知れない感情に戸惑いながら、
俺は母の泣く姿を呆然と見つめた。


759:2006/04/29(土) 17:03:17 ID:
控え室に明かりが灯り、時刻が夜であることを告げた。
すでに火葬は終わり、ほとんどの参列者が帰っていたが、
お父さんや母、弟妹たち、守さん夫婦、それに勲夫さんが帰らず残っていた。
俺を気遣ってのことだった。

「だいじょうぶかい?病院に行ったほうがよくないかい?」

皆、口々にそう言って心配してくれたが、別段、身体に異常は感じなかった。
それよりも気になっていたことを尋ねた。

「あの…恵子ちゃんは?」

勲夫さんが俯き加減に目配せをした。

部屋の片隅、即席の祭壇に、
冗談とも思えるくらい小さくなった恵子ちゃんがいた。

母の用意してくれたジャージに着替え、恵子ちゃんの前に正座した。

線香に火をつける。
静かに手を合わせ、目を閉じた。

一切の静寂が、恵子ちゃんと俺を包んだ。



語りかけるべき言葉も思い浮かばず、自分に苛立つ時間だけが過ぎた。
俺は断念し、目を開けた。

目の前に鎮座する、白く、小さな四角い箱。



君は、そこにいるの?



しゃべるはずもない箱に、心の中で問いかけた。


760:2006/04/29(土) 17:04:21 ID:
翌日、俺は熱を出して寝込んでしまった。
母は会社を休み、看病してくれた。

「ゆっくり休んでいきなさい」

母の言葉がありがたかった。
今、ひとりになるのは、辛い。怖い。



熱は三日間続いたが、四日目の朝にはすっかり復調した。

「もうだいじょうぶだから」

心配そうにしている母を会社に送り出した。

まだまだ日差しの強い縁側に座り、ぼーっと外の空気に触れた。

昼。
用意されていたお粥を腹に流し込んでいたら、電話がかかってきた。
守さんだった。

「身体の調子はどお?」

寝込んでいたこの三日間、守さんは毎日電話をくれたと、母に聞いていた。

「すみません、ご心配をおかけして。もう、だいじょうぶです」
「そうか…よかった」

本来なら俺のほうが守さんたちを気にかけなければいけないのに…。
ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちが胸を締め付けた。

「健吾君、いつ横浜に帰るの?」
「休みは日曜日までなので…明日か明後日には帰ろうかと思ってます」
「そうか。なら帰る時でかまわないから、ウチに寄ってもらってもいいかな?」
「ええ、かまいませんけど…」
「渡したいものがあるんだ」
「なんです?」
「恵子の手紙を見つけたんだ。健吾君宛ての」

手紙…?
恵子ちゃんからの?

「あの…今からお邪魔してもいいですか?」
「別にかまわないけど…だいじょうぶなのかい?無理しちゃダメだよ?」

守さんの気遣いを他所に、俺はただちに家を出た。
気持ちが急いて仕方ない。
それでも普段よりゆっくりと運転するよう心がけ、
一時間半ほどかけて守さんの家に着いた。


761:2006/04/29(土) 17:05:16 ID:
浩美さんも在宅していて、ふたりで俺を迎えてくれた。
やつれた顔で明るく振舞うふたりは痛々しかった。
俺も無理矢理、笑顔を作った。

恵子ちゃんの元へ案内された。
型通りに線香を手向け、手を合わせた。
相変わらず、箱は何も語らなかった。

居間に通され、茶を出された。
それに口をつけるのもそこそこに、守さんに目で促す。
守さんは黙って頷き、件の手紙を差し出した。

桜色の小さな封筒。
表に“健吾君へ”という文字。

俯きながら浩美さんが言った。

「今日ね、恵子の部屋の整理、始めようと思ったの。
 でも…途中でやめちゃった。
 あの子の物を触ってたら、まだそのままにしておきたくなって…」

当然だろう。
遺品の整理をすることが、心の整理につながるとは限らない。
いや、心の整理がつかないからこそ、遺品も整理できないのかもしれない。

「今はまだ…そのままでいいんじゃないですか」
「そうよね。まだ…いいよね」

顔を上げた浩美さんは、許しを得たかのようにほっとした顔をしていた。


762:2006/04/29(土) 17:06:11 ID:
「私らのことは気にしないで。早く帰って、読んであげて」

俺の気持ちを察してくれたのか、守さんがやさしく言ってくれた。
俺は深く頭を下げ、その場を辞去した。



車の運転がもどかしい。
早く。早く。
しかし俺の邪魔をするように道はどんどん混み始め、
とうとう高速のインターの手前で渋滞にハマった。

タバコをくわえ、イライラしながらハンドルを何度も叩く。

もう、その辺に車を止めてしまおうか。
なにも家に帰ってからじゃなくてもいいんだ。
そう思い始めた時、バックミラーに遠くの山々が映った。

(そうだ。あそこに行こう)

それはバーベキューの時に行った、恵子ちゃんのお気に入りの場所。
俺はすぐさま渋滞の列から抜け出し、Uターンした。


763:2006/04/29(土) 17:07:01 ID:
川原の土手に車を止め、車外へと躍り出る。
封筒を握り締め、あの日恵子ちゃんと歩いた森の小道を駆けた。
緑は数瞬で流れ去り、あっという間にあの滝が目に飛び込んできた。

乱れた息を整えながら、あの時ふたりで座った岩に腰を下ろす。

と、背後に人の気配を感じ振り向いた。
今日は先客がいたようだ。
小学生くらいの男の子がふたり。
ほんの少しの間、彼らは俺を見つめ、
やがて興味を失ったのか、また遊びに戻っていった。

封筒に視線を落とす。

一呼吸。二呼吸。そして最後にもう一呼吸。
そうして心を落ち着け、封筒を開封した。

ふわっと、アリュールの香りが鼻先を漂った。
封筒と同じ桜色の便箋が2枚。
そこには俺が愛した、しなやかで美しい文字が詰まっていた。


764:2006/04/29(土) 17:10:00 ID:
『健吾君へ
 今度のデートの時に渡そうと、この手紙を書いています。
 いつもおちゃらけてばっかりいる私だから、
 こんな手紙を書くと健吾君はきっと笑うだろうけれど、今日はガマンしてね。
 私の素直な気持ちです。

 健吾君、ありがとう。

 いつも笑わせてくれて。
 いつも話を聞いてくれて。
 いつも励ましてくれて。
 いつも心配してくれて。
 いつも素敵な言葉をくれて。
 いつも、私を幸せな気分にしてくれて。

 ありがとう。

 でも私は、その何分の1でもお返しできていますか?

 最近思ったの。
 私は健吾君からもらうばっかりで、
 何ひとつお返しできていないんじゃないかって。

 つき合う前の、もうずっと昔のこと。健吾君は言ったね。
 「俺は親戚とか少ないからみんなと親戚になれてうれしい」って。
 そしてその言葉どおり、
 健吾君は今までいつも、私やイトコ、親戚たちに優しく接してくれたね。
 私たちを、大事にしてくれたね。

 私はそれがすごくうれしかったけれど、反面、こう思ったの。
 健吾君はずっと、さみしかったんじゃないかって。

 健吾君はいつも堂々としていて、言葉も力強くて…私はそんな健吾君を
 いつも“すごいなぁ”って思いながら見てきました。
 でもいつだったか健吾君がご両親の話をしたとき、いつもと違う健吾君を感じたの。
 健吾君が、泣いてるような気がしたの。

 健吾君はあまり詳しくは話してくれなかったけれど、
 きっと辛い体験をしたんだね。

 そのとき私は何も言えなかった。何もできなかった。
 はじめて健吾君の心に近づけた気がしたのに、どうしたらいいかわからなかった。

 私が勝手に感じたことだし、気のせいかもしれないけれど、
 でもこれからは、さみしいと感じたとき思い出して。

 私はいつでも、健吾君の横にいます。

 私はずっと、健吾君の手をにぎっています。


 健吾君
 愛してます


                       2005.8.21  恵子 』



恵子ちゃんからの、最初で最後のラブレターだった。


765:2006/04/29(土) 17:10:47 ID:
ドボン、ドボンと、先程の子供たちが滝壺に飛び込んでいる。
大きな水しぶき。楽しげな嬌声。入れ代わり、立ち代わり。



咄嗟に口を手で押さえた。
そんなことをせずとも、彼らには聞こえなかったかもしれない。







俺は泣いた。


766:2006/04/29(土) 17:11:46 ID:
あれから二ヶ月。
俺は俺の日常に戻った。

時折、無性に腹が立つ。
君という大事な要素を欠いているのに、この世界は変わらず機能しているから。

いつもと同じ朝。
いつもと同じ夜。

まるで君を忘れてしまったかのような世界。

でも俺は、この世界のそこかしこで、君を感じている。

職場に君と同じロングヘアの女の子がいる。
その後姿が君を思わせるから、見るたびいつも視線をはずしてしまうけれど、
ついついもう一度見てしまう。

通勤電車でアリュールの香りがした。
香りの主を探してキョロキョロしたんだけど見つからなかった。
でも、それでもあきらめられなくて、電車を降りるのをためらった。

本屋に行くと必ず、君からもらった本を探す。
そして見つけては安心し、指でそっとなぞる。
見つからないと落ち着かなくて、ただそれだけのために別の本屋に行ってしまう。

いなくなった君に、ずっと恋をしている。



『早く結婚してくれ』と、君は言ったね。

見たかったなぁ。
あの時君は、どんな顔をして、その言葉を言ったんだい?

毎日のように俺は、その顔を想像してる。
そしていつのまにかその顔が、俺が思い出す君の顔になってしまった。



君の願いは、俺の願いでした。



恵子ちゃん。



さよなら。


767:2006/04/29(土) 17:12:43 ID:
以上です。

まずはこのような駄文・長文にお付き合いくださったみなさんに
あらためて御礼を申し上げます。
そして重ねて、
長期に渡りスレッドを放置した件についてお詫び申し上げます。
本当にすみません。

このスレッドを立てた当時、私は精神的にも肉体的にも病んでいました。
何をしていても考えることは彼女のことばかりで、
食事も睡眠も満足にとっていませんでした。

そして心身共に日に日に弱っていく中、この2チャンネルに出会いました。
お恥ずかしい話、コンピュータ業界に身を置きながら
この掲示板について全くの無知だった私は、とあるスレッドに書かれていた悩みと、
それに対する多くの意見・アドバイス・励ましを拝見し、とても感動しました。
そこには真摯に相談を受ける人々と、
それによって悩みから解放された人々がいました。


768:2006/04/29(土) 17:13:39 ID:
私はこの掲示板に縋ることで楽になれるのでは…と考えました。
おかしな話ですが、家族や身近にいる友人よりも、
モニターの向こう側にいる赤の他人に救いを求めたのです。

そして私は書き始めました。
仕事をしていても、寝ても覚めても、このスレッドのことばかり考えました。
ある意味、捌け口として成功していたと思えます。
文章を書くために彼女との出来事を思い出していく作業―
それは一見矛盾しているようですが、機械的なその作業に熱中することにより、
確実に悲しみや痛みが和らいでいったのです。
そして何よりみなさんからの感想、アドバイス、激励、叱咤その他諸々が
ますます私をこのスレッドに没入させていきました。


769:2006/04/29(土) 17:14:21 ID:
大との件を書き終えた時、身体が悲鳴を上げました。
長らく忘れていた痛みが胸を襲いました。
しかし私はそれを軽視し、「あと少しだから」と書く手を緩めず、
会社に行くこと以外の全ての時間を(それこそ食事や睡眠をおざなりにしてでも)
文章作りに費やすようになりました。

三、四日ほど経った頃。あの日は夜勤明けでした。
家に着くなり書き始め、夕方にとうとう書き終えました。(今回アップした分です)
書き上げたことへの安堵からか、一気に疲労感に襲われた私は、
スレッドにアップする前に一眠りすることにし、ベッドに雪崩れ込みました。
そして私は、自分の身体の限界を知りました。

夜半過ぎ、激しい動悸に目覚めました。
かつてないほどの痛みに危険を感じた私は救急車を呼びました。
そして駆けつけた救急隊員の担架に揺られながら、私は気を失いました。


770:2006/04/29(土) 17:15:10 ID:
目覚めると病院のICUにいました。
驚いたことに、倒れた晩から丸二日が経過していました。
しかも二度の手術を経た後でした。

担当医の説明に更に驚きました。
私の心臓は、数年前に倒れた時よりも格段に重い病にかかっていたのです。
その年の春に受診した健康診断ではなんの問題もなかったのに…。
担当医の問診に対し、この二ヶ月の私の生活について打ち明けました。
担当医は合点がいったという表情で私に言いました。
精神的な要因が強いですね、と。
なんとたった二ヶ月の間に、私の心は私の身体を殺す寸前まで追い詰めていました。


771:2006/04/29(土) 17:15:51 ID:
精神が肉体に及ぼす作用というものを直に体験し、さすがに私も驚きましたが、
恐怖はまったくありませんでした。
それどころか「もうどうでもいいや」という、捨て鉢な気分を自覚しました。
ようやく2チャンネルで手に入れかけていた安らぎや解放感も、
この時は霧散していました。

私の病気は決して難病というわけではなかったのですが、
あと二度ほど手術をする必要があると担当医は言いました。
そしてそれに耐えられるだけの体力と気力も必要だと。

両方ともその時の私には無いものでしたが、
それを取り戻す気にもなれませんでした。


772:2006/04/29(土) 17:16:38 ID:
入院生活が始まり、母が泊り込みで付き添ってくれました。
母は常に私を気遣い、励ましてくれましたが、私の無気力さは変わりませんでした。
父やお父さん、弟妹たち、守さんや親戚の人たち、友人や同僚、
様々な人々が私の病室を訪れ、みな口々に私を慰めてくれましたが、
やはり私の心に変化はありませんでした。
そしてもはや自力で歩けなくなるほど衰弱した私は、
この先に訪れるであろう己の末路をただひたすらに待ちました。

そして入院生活も一ヶ月になろうとしていた去年の暮れ、
心配した担当医と家族の勧めで、私はカウンセラーの治療を受けることになりました。


773:2006/04/29(土) 17:17:13 ID:
そのカウンセラーは私と同い年の女性でした。
嫌々、カウンセラー室を訪れた私は、
初日から反抗的な態度で彼女の診断を受けました。
(どうせ型通りの診断だろう)、(俺の気持ちなどわかるものか)、と。

しかし返ってきた彼女の反応は実に冷静で、ともすれば冷淡でした。
正直な話、これがプロというものかと私は感心しました。
慰めや励ましの言葉に埋もれていた私にとって、彼女の態度は新鮮でした。


774:2006/04/29(土) 17:17:45 ID:
感心したとはいえ、私は反抗的な態度を改めませんでした。
悪態をついたり無視したり。
しかし悉く、彼女には受け流されました。

一週間、二週間とそれが続いた時、私の心に変化が現れました。
それまで無気力で起伏のなかった心の中に、イライラする気持ちが生まれていました。
それは彼女に対して向けられていたものでした。
いつも表情を変えずに私の相手をしている彼女を、なんとか困らせてやりたい。
あのすまし顔を、困った顔に変えてやりたい。
非常にサディスティックで、暴力的な感情でしたが、
その一心が私の糧になっていたのです。
歪んだ感情に支えられ、
私は毎日、カウンセラー室に車椅子を走らせるようになりました。


775:2006/04/29(土) 17:18:36 ID:
とはいえ、病院食もあまり口にせず、
栄養のほとんどを点滴でまかなっていた私の身体にも限界が来ていました。
1月下旬、私は再び昏睡状態になりました。

三日後、私は目覚めました。
ICUのベッドの上、様々なチューブを身体に纏いながら、私は
(あーあ、また生き延びてら、俺)
と、生に感謝することなく己の悪運を恨めしく思っていました。

それから更に四日後、個室に戻った私の元にカウンセラーの先生がやってきました。
空元気を振り絞って相も変わらずに毒づく私をにらみ、彼女は一言、
「馬鹿じゃないの?甘えるのもいい加減にしたら?」
そう言い捨て、病室を出て行きました。

唖然としました。
彼女の目には涙が溜まっていました。


776:2006/04/29(土) 17:19:14 ID:
翌日、私はカウンセラー室を訪れました。
さすがに悪態などつけようはずもなく、
恐る恐る彼女の顔色を伺いながら話しかけました。
彼女は私の顔など見ず、ただ生返事をするだけ。
私は居た堪れなくなり、この日は早々に退散しました。

その後も毎日、彼女の元に通いました。
あの時の涙が気になっていた私は、
まるで彼女の機嫌をとるかのようにカウンセリングに身を入れました。


777:2006/04/29(土) 17:19:48 ID:
10日ほども経った頃には彼女の態度もようやく軟化し、
以前よりも穏やかに会話ができるようになりました。

まだ気持ちは前向きとは言い難かったのですが、
私は彼女に、親身になってくれていることへのお礼を言いました。
「仕事だから」と言いつつも、彼女は照れ臭そうに笑っていました。
お互いに打ち解けた気がした私は、彼女にあの時の涙の意味を尋ねました。


778:2006/04/29(土) 17:20:28 ID:
単に親身になってくれていたから泣いたのだ…そう思っていました。
しかし彼女が訥々と語ってくれた話は、そんな単純なものではありませんでした。

彼女は旦那さんを亡くしていました。
同じ精神治療の現場に身を置いていた旦那さんは、
職場では尊敬すべき師であり、家庭では優しく申し分のない夫だったそうです。
その頃の二人は都内の大病院に勤務していたそうで、
きっと二人の前途は、明るく希望に満ちていたことでしょう。

しかし6年前、旦那さんを病魔が襲いました。
私と同じ心臓の病で、私のそれよりも数倍重いものだったそうです。
そして皮肉なことに、それと前後して彼女の妊娠も判明しました。


779:2006/04/29(土) 17:21:01 ID:
新しく生まれてくる命のためにもがんばって、と
彼女は病床の旦那さんを励ましました。
しかし元々エリート意識の強かった旦那さんは、
病気が自分のキャリアに傷をつけたとひどく落胆し、自暴自棄になったそうです。
担当医ばかりか、妻である自分の言うことも聞き入れなくなった旦那さんは
日毎に衰弱し、わずか半年足らずの闘病で亡くなられたということです。

彼女の言った言葉が今でも耳に残っています。
「彼は闘病なんてしなかった。あれは自殺のようなもの」


780:2006/04/29(土) 17:21:35 ID:
全てが終わった後、お子さんが生まれました。男の子でした。
以来、彼女は息子さんと二人で生きてきたそうです。

私の膝に手を乗せ、彼女は最後にこう言いました。
「心を持っているのはあなたひとりだけじゃないの。
 あなたの周りには、あなたの心を“思いやる心”がいっぱいあるのよ」


781:2006/04/29(土) 17:22:07 ID:
翌朝、私は入院してから初めて、食事を残さず平らげました。
すっかり小さくなった胃袋には拷問のようでしたが、なんとか詰め込みました。

病気を治そうと思いました。
前進しようと思いました。

他人の悲話を聴いて自分を見つめ直す…陳腐なメロドラマのような話です。
でも私が、今の前向きな気持ちを抱く第一歩でした。


782:2006/04/29(土) 17:22:42 ID:
それからは順調に体力も戻っていきました。
時折、思い出して瞼を晴らしたこともありましたが、
無理矢理にでも顔を上げ続けました。

そして三月末、体力的にも精神的にも万全となった私は、3回目の手術に臨みました。
手術前の面会にはたくさんの人々が私の病室を訪れました。
家族や親戚、友人、同僚、カウンセラーの先生までもが来てくれ、私は
「大袈裟だなぁ、みんな(笑)」
と笑いながら手術室に入ったおぼえがあります。

…しかし、後から知ったのですが、決して大袈裟ではなかったのです。
私が無気力でいた頃、母は幾度となく担当医に言われていたそうです。
「手術日が延びれば延びるほど、成功率も下がっていきます」と。
そして手術前夜に母が聞かされていた成功率は50%をきっていたそうです。

きっと面会に来ていた誰もが(見納めだな、こりゃ)と思っていたのでしょう(笑)
…私も今だからこそ笑えるのですが。


783:2006/04/29(土) 17:23:16 ID:
手術は8時間にも渡りましたが、私は無事に目覚めることができました。
術後、ICUには父と母とお父さんだけが通されました。
母が言いました。
「扉の向こうにはみんながまだ残ってくれてるの」と。

うれしかったです。泣きました。


784:2006/04/29(土) 17:24:04 ID:
入院当初に担当医から言われていたとおり、
あと一回、最後の手術を受けなくてはいけませんでした。
しかもそれまでは薬の投与が続くため、必然的に体力も落ちてしまうとのこと。
担当医は厳しく、私に体調管理の徹底を命じましたが、
私は素直に言いつけを守る気になれていました。

それからの日々は病院側の管理に従い、また自己管理にも努めました。
体力を完璧なまでに維持し、車椅子の世話にもならなくなりました。
一見すると健康体かと思えるほど、血色も良くなりました。
カウンセラー室にも毎日通い、精神状態も良好でした。

ある時、カウンセラーの先生が私に質問しました。
「手術が終わった時、どんな気持ちだった?」
私はありのまま答えました。
「うれしくて、怖かったです」
「怖かった?」
「後から、実は成功率が低かったって聞かされて…。
 もしかしたら俺は死んでたかもしれないんだって思ったら、震えました」
「…そっか。うん。
 もう…この部屋に来てもらわなくてもいいかもしれないなぁ」
「…もうカウンセリングの必要がないってことですか?」
「そう。怖かったってことは、生きてるのがうれしいってことだからね」

その言葉と彼女の笑顔がとてもうれしかったです。


785:2006/04/29(土) 17:24:49 ID:
4月の中頃。
このまま順調に行けば4月末には最後の手術をすると、担当医が言いました。
そして前回よりも成功率は高くなるだろうとも。
担当医は「まず問題ないですね」と満面の笑顔でした。

その頃、私は気にかかっていたことがありました。
それはまさに今、開催されているだろう恵子ちゃんの書展のことでした。
守さんから聞いていた会期は4月一杯。
手術が成功しても退院まではまだまだかかることでしょう。到底、間に合いません。
恵子ちゃんの作品は入選ばかりか、
特別な賞まで獲得していました(賞の名前は失念しました)。
そのため5月以降は全国を盥回しにされます。
この機会を逃すといつ会えるのか見当がつきません。

ダメモトで担当医に懇願しました。二日、外泊許可をくださいと。
一日は書展のために、もう一日は恵子ちゃんの墓参りのためでした。

当然ながら担当医は難色を示しました。
ちょっと考えさせてと、すぐに結論はもらえませんでした。


786:2006/04/29(土) 17:25:43 ID:
二日後、担当医が許可をくれました。

ただし条件付き。
・外泊は一日だけ。横浜の自宅でのみ。
・外出してもいいが長距離はダメ。
・外出時は病院側の付き添い(看護士さんとカウンセラーの先生)がつく。
・その他、食事制限や細かなことetc.etc.

一日だけかとちょっと不満に思いましたが、
つい最近まで死にそうだった男なのですから文句は言えません。
恵子ちゃんには申し訳ないけれど、墓参りは退院してからということにしました。

そしてそれからはますますリハビリにも熱が入りました。


787:2006/04/29(土) 17:30:28 ID:
そして今、私は横浜の自宅にいます。
付き添いの母が外出したのでこれ幸いとばかりにこの文章を書いています。
(医者からパソコンは禁止されているのです。母は夜まで戻らない予定ですが、
 アップし続けるうちにこんな時間になってしまいました。大量過ぎですね。
 親の目を盗んで悪さをしている小学生のように、今はドキドキしてます(笑))

入院中、何度もこのスレッドのことを思い出しました。
正直な話、スレッドを放置してみなさんに迷惑をかけたということよりも、
自分にとって大切な存在をほったらかしにしている…、
そんな思いが強かったです(すみません)。

母が外出するとすぐにパソコンを起動しました。
そして先程このスレッドを発見し、とてもうれしく思いました。
過去にいただいたみなさんからのコメントを読み返し、涙がでました。
入院前のあの当時もみなさんのコメントに救われてきましたが、
今はまた違った、もっと温かな感情が胸をしめています。


788:2006/04/29(土) 17:31:42 ID:
ただ削除依頼が出されていたのはショックでした(あれは私ではありません)。
そこまで嫌悪されていたのか…と、正直、続きをアップするのを躊躇いました。
しかし…どうかお許しいただきたい。
「最後まで書き上げたい」という私のくだらない願いを、どうか許してください。

また、私の文章が創作であるとお思いの方々もいらっしゃいました。
ライターだった時の癖でついつい小説然とした文体となり、
また内容も三文小説にも劣るものですから、そう思われるのも当然でしょう。
それに対し、創作ではないと証明する術は私にはありません。
勝手な物言いですが、みなさんのご判断に委ねさせていただきたいと思います。

それと、私の文章に似たスレッドがあるとおっしゃった方がおられましたが、
私が2チャンネルに立てたスレッドはこれひとつです。
これまた証明する術はありませんが…。


789:2006/04/29(土) 17:33:01 ID:
みなさんそれぞれのお考えでこのスレッドを存続させてくれたのだと思います。
純粋に待っていてくださった方。批判として保管してくださっていた方。
しかし、そのどなたにも感謝を申し上げます。
みなさんのおかげで、私は最後のけじめをつけることができました。

明日、私は恵子ちゃんの作品を観に行きます。
彼女の最後の作品です。
看護士さんとカウンセラーの先生(と、その息子さん)が付き添ってくれますが、
きっと私は、憚ることなく泣いてしまうでしょう。
しかし明日は、明日だけは勘弁してもらおうと思います。
それで最後にしますので。

明日の夜には病院に戻ります。
私がこのスレッドに来ることももうないでしょう。
退院にはどれくらいかかるのか…それは私次第ですが、
恐らく、その時にはこのスレッドはなくなっていることと思います。
みなさん、本当にありがとうございました。

長々と…本当に長々と失礼いたしました。さようなら。



【彼女との話】「早く結婚してくれ」 従姉に恋をした。信じられないほど心が痛い。彼女に会ってから今日まで、一年一年、一日一日、その痛みは蓄積されていき、今は極限だと思う

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引用元:http://love3.2ch.net/test/read.cgi/lovesaloon/1131655290/